南部へ帰りたい

 私が、秋田大学卒業後、弘前大学医学部第二内科へ入局させて頂いたことから、私ども夫婦はほぼ八年間の間、津軽地方に暮らしました。弘前に本居を置きながら、大学病院や碇ヶ関村の黎明郷リハビリテーション病院を始めとして、公立金木病院、鯵ヶ沢町立病院、弘前中央病院、藤崎町立病院などに勤務致しました。ご存知の通り津軽は雪の多い土地で、灰色の曇り空から連日のように湿気の多い雪が深々と降り続きます。そこには津軽特有の暮らしがありました。
 医局生活も後半に入った頃、短い正月休みに急いで車に乗って、短い家族旅行に出掛けました。盛岡市近郊の鴬宿温泉に一泊してから、盛岡市内を巡ってみました。よく晴れて、絹雲が空にあり、凍てついた路上には、チェインを巻いた車輪の跡が残って、まるで三枚下ろしの魚骨のようなデコボコ模様が続いておりました。家内の提案があって、「光原社」に車を止めました。ここは、南部地方の民芸品を集めて展示販売もしているところですが、宮沢賢治がその名付け親であり、童話「注文の多い料理店」の出版元でもあります。店に入って民芸品の陳列棚を通り、中庭へ出ますと、そこは石畳が敷かれており、白壁の蔵や工房のような建物が並んでおりました。一角には太く背の高い竹が数十本も立ち並び、風に波打ってサラサラと乾いた葉擦れの音を立てておりました。見上げれば、まるで青空を掃き清める箒のように風に舞っておりました。
 「そうだ、南部はこうだったんだ。帰りたい、早く南部へ帰りたい。」
そう思いました。丁度、学位論文のための実験を続けてデーターが揃い、論文の体裁が付き始めた頃でしたので、次第に、次の将来の段取りが考えられるようになっておりました。
 回遊魚のサケは、故郷の川の匂いを記憶しており、これを手掛かりとして、間違いなく故郷の川へ回帰するのだとの話を聞いたことがあります。今、南部地方の一隅に帰り着いた私にとって、凍土と青空とが、故郷の匂いだったのかも知れません。


     「はちのへ医師会のうごき」平成8年1月20日 319号 掲載


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