私は回遊魚


 家族旅行で札幌を訪れた事があります。観光バスが札幌市内を流れる豊平川を横切る時、バスガイド嬢が
「石狩川を通り、この豊平川までもサケが遡ってくるのです」
と案内しておりました。それを聞いてなぜか身につまされる思いがしたことを覚えております。 ご存知の通り、サケは生まれ故郷の川で孵化して幼い頃を過ごし、その後、川を下って大海に出て育ち、産卵の頃に番となって、間違いなく故郷の川に戻って来て、そこで一生を終える訳です。持って生まれた属性を一生かけて再現するサケに対して、その律儀さを思うと、関心するとともに、少し堅苦しい気持ちにもなってしまいます。生まれ故郷の川を忘れて、ハワイの海で熱帯魚と戯れて一生を過ごしたというサケが居たっていいじゃないかと思うのですが、寡聞にして、そんな話は聞いたことがありません。
 何故サケの話で身につまされるのかと申しますと、実は私もこのサケに似ているからなのです。自己紹介になりますが、私は、医療過疎の村(階上村)に生まれ、中学一年まで同村で育ち、八戸市へ転校して高校まで過ごし、その後、東京にある大学の理工学部へ進学しました。しかし、その勉強に一所懸命にもなれず、留年三回を重ねてしまいました。大学7年生にもなって、反省しながらその原因を探してみますと、「医者になって故郷の人々のお役に立てたら立派だよ」という有形無形の期待を身に受けていたからだという結論に至り、新規巻き直しを図ることとなりました。合計8年に及んだ東京暮らしを畳んで、秋田大学医学部へ進学しました。時に26歳の春でした。第二の学生生活を6年間秋田市で過ごし、その間、「八戸生まれ育ちのお嬢さん」と学生結婚いたしました。秋田大学卒業と同時に弘前大学医学部第二内科へ入局させていただき、今度は津軽地方を中心に10年間の医局生活をさせて頂きました。その後、町立田子病院長として赴任して足掛け三年になり、この度、非力を省みず階上町で内科医院を開業することといたしました。とうとう「回遊魚のサケ、生まれ故郷の川に帰る」の図となってしまった訳です。

 あの札幌のサケは自分から希望して石狩川に生まれた訳ではなく、十勝川や網走川に生まれても良かった訳で、一生懸命石狩川を遡行しているからといってその川を遡行するのはそのサケの責任ではない訳です。私が、階上町に生まれそこに向かって戻って行っても、それは私のせいではなく、この身の宿命だとでも言ったらよいのでしょうか。それでもサケは激流に逆行して擦り傷だらけになって鱗も剥げ落ちる程に頑張ります。
 そのサケに「あなたはそれで幸せですか?」と質問してもサケは返事の仕様がないでしょう。私が今「あなたは幸せですか?」と街角でマイクを向けられたら、私はサケのように戸惑って、「今は一所懸命やるしかないので、考えたことがありませんが」と答えます。
 その後にもし「幸せです」と続けて答えると、「それは良かったですね」と返事があり、もし「幸せとは思いません」と続けて答えれば、「それはあなたが人生の楽しみ方を知らないからでしょう」と、妙なコメントが返って来るかも知れません。
 サケはその回遊の一生を上手に楽しんでいる生き物なのかも知れませんし、あるいは、ただただその身の義務を黙黙と遂行して楽しみのない肩の張る可哀相な生き物なのかも知れません。ただ、サケは必ずしもサケに生まれたかった訳ではないし、私は私の宿命を望んで手に入れた訳でもないのです。
「気が付いたら、昭和27年8月1日、階上村に生まれていた」
のです。それが総ての始まりでした。

 階上町で開業の運びとなって、ここまで一緒に回遊遡行して来てくれた良き伴侶に感謝しつつ、「今私は何をしているんだろう」と、ふと思いを巡らす日々が続いているのです。


     八戸地区弘前大学医学部同窓会誌「はちのへ」 第27号 掲載


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