もう一人の三蔵法師                     目次に戻る


 西暦20××年。広大な宇宙の一隅を一台の小型宇宙船が高速で地球を目指していた。

【 操縦士 】船長!遂に太陽系第三惑星(地球)を視野に捉えました。故郷のK惑星を出発し、歳月をかけた末のやっとの到着です。何と長い道のりだったことか!それにしても一体なぜ船長は、K惑星を抜け出して幾多の困難を乗り越えてまでして、あの地球を目指すのですか?その北インドの祇園精舎という所には一体何があるんですか?
【 船 長 】私は宇宙の真理を究めたいのだ。あの地球の祇園精舎ではかつて仏陀という偉大な地球人が大変な真理を説いたというのだ。何としてもその教えを学びK惑星まで持ち帰りたいのだ。我々のデータによると、かつてそのような志の者が地球上にも実在し、その名を三蔵法師というのだそうだ。
【 操縦士 】そうすると私たちは、さしずめ、宇宙からやって来たもう一人の三蔵法師と、もう一匹の孫悟空という訳ですね(笑い)
【 船 長 】そういうことだ。しかし、三蔵法師が困難な旅路の末に到着してみると、そこでは仏教は既に衰退しており、祇園精舎は廃墟と化していたそうだ。だが、偉大な教えはまだ広く流布しておろう。心配せずに、先ずは良い着陸地点を探すことだ。
 
 小型宇宙船は遂に地球上に着陸を果たした。しかし地表は見渡す限りの焼け野原であり、放射能探知器がけたたましい警戒音を発していた。
【 操縦士 】船長、大変です!地表は強度の放射能に満ちています。恐らく地球人たちはとうとう核戦争のボタンを押してしまい、地上のあらゆる国や民族が滅び去った後のようです。総てが灰燼に帰してしまいました!
【 船 長 】しまった、時遅しだ。万事休すだ!しかしながら、何としてでも真理を持ち帰りたいものだ。焼け残った手がかりを掻き集めるのだ。そこの瓦礫はお寺の跡ではないか?掘り起こしてみなさい。おお!これは経典という物ではないか?何か文字のような物が見えるぞ。
【 操縦士 】船長、この巻物の名前は「般若心経」とあります。何やら文字のような物があって、「不生不滅、不増不減」とあります。われわれの翻訳装置に掛けてみますと、「存在する総てのエネルギーは生じたり滅したり増えたり減ったりしない」と翻訳されました。
【 船 長 】何と、これは熱力学の第一法則そのものではないか!宇宙を構成する総ての物は共通した物質で出来ていて、全宇宙の厖大なエネルギー量は合計して一定だということか!何と遠大な真理を見抜いておられたのだ!
【 操縦士 】船長、「色即是空、空即是色」とあります。われわれの翻訳装置に掛けてみますと、「形・現象には実体がなく、実体がないから形・現象を現すことができる」と翻訳されました。
【 船 長 】何と美しい教えだ!その意味するところを例えれば、まるで砂漠の風紋を見るようだ。砂の表面に風によって作られた美事な風紋は実体がなく刻一刻と変化していてとどまることがない。宇宙における物質も現象も総て微粒子から成っており、これら微粒子の運動は絶え間なく変化してとどまることがない。その中に現れる「私」や「あなた」などの実体のない形や現象に捕らわれてはいけない、そういう教えだ。仏陀は天文学から原子物理学、量子力学までも直感し、森羅万象を一元的に理解していたのだ!
【 操縦士 】船長、「無受想行識、無眼耳鼻舌身意、・・・乃至無意識界」を翻訳装置に掛けてみますと、「(形・現象には実体がないのに)、(地球人は)その感覚器官に生理学的に生じた幻覚にこだわり、有りもしない物を有るかのように分別する意識を脳内に生じさせて、(迷いの中を彷徨っている)」と翻訳されました。
【 船 長 】そうだったのか!感覚という間違いに捕らわれて、誤った情念を生じさせ、自己と他者とを区別する二元論に陥るところから総ての誤りが始まっていたのだ!「自分」という迷いを去って一元論で理解すれば良いいのだ。「われ思う故にわれ在り」から去ることだ!地球人は、これほどの真理を究めた先達を持ちながらも、その教えを生かせずに、迷いの最中に核戦争のボタンを押して、自滅の道を去ったのだよ。あの三蔵法師を生んだ国も、一度は超大国と成りながらも。残念なことだ。
【 操縦士 】船長!放射線の被曝量がもう限界です。一刻も早く地球を離れねばなりません!
【 船 長 】よし孫悟空。有りったけの教典を掻き集めてK惑星へ持ち帰るのだ。経典の全貌解明は帰国後のお楽しみとしよう。急ぎたまえ!
【 操縦士 】はい三蔵法師さま!(笑い)

 小型宇宙船は、燃え残った経典をぎゅぎゅうに詰め込むと、力強く上昇し、遙かK惑星を目指して地球を後にしたのだった。

     
青森県医師会報平成23年1月 572号 掲載


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