一 塵 法 界                   目次に戻る


 素粒子物理学者のK先生は多忙を極めていた。何しろこの分野の研究と言ったら驚きの連続なのだ。古代ギリシアの昔から、「全ての物質はこれ以上に分解できない粒子(アトム・原子)からできている」とされて来たのに、最近では原子どころか、その中には核があって、それは陽子と中性子から成り、更にそれらはニュートリノなどのクォーク(素粒子)から成り立っているという。そしてこれらの極微の世界の研究を進めると、その先が、ビッグバンに始まる宇宙開闢(かいびゃく)論にまで繋がってしまうというのだ。K先生がヒマな訳がない。
 ある深夜、K先生は机に向かっていた。明日は大学での講義があり、それに新しい知見を盛り込もうと講義ノートを纏めていたのである。机上の文献を掻き回しているうちに、広辞苑のページがめくれて、一つの見出し語が目に留まった。
「一塵法界」→(仏教)極小の微塵にも宇宙全体の真理が備わっているということ。
 K先生は、「おや?お釈迦様はそこまでお見通しだったのか」と思ったら、急にお釈迦様と旧知だった気がしてきた。これは明日の講義の前口上に使えるぞ。K先生は、それをメモすると、実験の疲れから睡魔に襲われ、机に座ったまま居眠りを始めると、そのまま夢の世界へ落ちて行った。

                      ☆
 夢の中で、K先生は西域の砂漠の中に座っていた。月も沈み、薄明を残すだけの砂漠に見渡す限りの風が吹き渡っている。砂塵が舞っていて、あらゆる視界の中で形あるものと言えば砂上の風紋だけだ。
 そんな中で、K先生は理解している。宇宙の物質は全て素粒子から成り立ち、それら天文学的数の素粒子は、物理学の法則に従って、絶え間なく衝突し、集合と離散を繰り返して一瞬もとどまることがない(諸行無常)。砂の表面に風によって生じた風紋のように、形あるように見えるものも実体がなく、そこに現れる「私」や「あなた」などには実体がないのだ(諸法無我)。
 やがて砂漠の薄明も去り、漆黒の闇となって何も見えなくなった。風が凪(な)いで、全ての音は砂に吸収され何も聞こえない。無機質の砂漠は舌の味わいも鼻の匂いもない。砂の灼熱が去って皮膚温度は熱くも寒くもない。五感が何も伝えて来ないのだ。いま少しの間は生理的欲求もなく、余計な考えも浮かばないので、「自分」という感覚が薄れていく。このまま心の静まった安らぎの境地で居られたら良いのだ。K先生は砂上に横たわった。自分の体が乾燥してミイラとなり、風化して砂塵となり、飛散して砂に帰って行く。「自分」というものさえ存在しない。これが悟り(涅槃寂静)・・・
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 K先生は尻が痛くなって目が覚めた。つまり、両側の坐骨神経が痺れの感覚を伝えて来たので、K先生の中枢神経系の中に「自分」という神経活動が生じたのだ。K先生は、物理学的世界観と仏教的世界観とが酷似していることを感得した。そして、夢は早速のご利益をもたらしたのだ。
 K先生には生来の疑問があった。
「自分がなぜ、この時代に、この境遇に生まれたのか?」
 K先生はこの解答を得て自分の生きる理由の手がかりとしたかったのだ。しかし、この疑問を考えることは、砂上の風紋の理由を考えることと同じだった。なぜこのような風紋になったのか?それはビッグバンに始まる宇宙開闢以来のたくさんの原因が集積した結果であって(因果応報)、理由はあるがその解析は無理だと言うことだ。そして、その問いが解かれずとも良くなった。「自分」というものが存在しないとなると、問いも存在しないのだから。
 また、もう一つのご利益をもたらした。階下では、年老いた両親と、妻と子供たちが眠っている。K先生は、認知症の両親への憐憫の情や、妻への想いや、子供たちの将来のことや、ご自身の喜怒哀楽などで、心が穏やかではなかった(一切皆苦)。「それらは無明ゆえの煩悩によって生じるのだ」と何処かの住職さんから聞いたことがある。確かにその通りだと思う。これらの情念をより深める方向に努力しても、より一層深みに嵌まるだけであって、この方向に解決は無いのだ。K先生はそう直感できるようになっていた。
 
 夢から覚めたK先生は気持ちが楽になっていた。それあってK先生はすぐにご自身の立ち位置を決められた。今の自分の境遇はそう悪くない。今しばらくは煩悩の中に居よう。もし人生が辛くなったら、その時は舵を切ってUターンして、仏教世界を目指せば良いのだ。素粒子をも「自分」をも、最後には全てを否定するこの「究極の虚無主義」は、「自分」を楽にしてくれるのだから。
 
 K先生は書斎の電灯を消して階下へ降りて行った。

     青森県医師会報 平成25年 6月 601号 掲載


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