地球は狭い                          目次に戻る


 K神父さんはニコライ堂の通りを折れると学生街に出た。今日の午後は自由時間なので、私用を済ませようと街へ出たのだ。最近海外からの留学生が増えていて、この界隈は様々な学生を見かける。小さな十字架を胸元にした女の子も通れば、ヒジャーブをかぶり顔だけ出してるイスラムの子も通る。
 お茶ノ水駅北口の広場を通りかかると、人だかりがしている。その真ん中に人が立っていて、マイクとスピーカーを持って「辻説法」のような演説をしていた。彼が訴えるには、キリスト教徒とイスラム教徒の軋轢がグローバル化しているとか、ロシアの南下政策が強引だとか、中華思想の中国の海洋政策が横暴だとか、北朝鮮のミサイルが脅威だとか、だから集団的自衛権を得て、断固たる対抗策を打つべきだと、短いフレーズを畳み掛けるように訴えていた。駅構内の売店にはタイム誌やニューズウィーク誌が並び、そこにも同じような国際紛争の見出し語が飛び跳ねていた。
 神保町に向かって通りを下るとたくさんの書店が並んでいて、あちこちの店頭には仏教の入門書が平積みされている。昨今の「葬式仏教」から離れて仏教の原点に立ち返り、釈迦の言葉に学ぼうとする人々が増えている。仏教が静かなブームなのだ。それはストレスの多い現代社会に救いをもたらすものであり、それを求める姿勢はK神父さんにとっても好ましいものであった。人はより良く生きるために信仰を求めるものなのだ。K神父さんは、世俗を知るために、仏教入門書の一冊も読んでみようかと思うのだった。
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 K神父さんは名曲喫茶「ウィーン」に着いた。外出して用事が済むと最後にここに寄るのが楽しみなのだ。喫茶店の奧のいつもの席に着くと、リクエスト用紙に「マタイ受難曲」と書いてウェイターに渡し、薫り高いコーヒーを口に含むと、眼をつむってソファーに身を沈め、リクエスト曲を待っていた。やがて、学生街の喧噪で疲れたK神父さんは、不覚にも眠りに落ち、夢を見始めた。
 その夢の中で、K神父さんは紀元前五世紀のインドの祇園精舎に居るのだった。そこの広場を行くと人だかりがしていて、その真ん中に人が立って説法をしている。どうやらそれは釈迦であり、周囲には大勢の弟子たちが座りその説法に聞き入っているのだった。
 弟子たちに加わったK神父さんは、胸元の十字架を示しながら、思わず問いを発していた。
「尊者よ!私は神と子と精霊に仕える者です。私たちキリスト教徒はイスラム教徒と軋轢を続けて参りました。この先更に激化するでしょう。私たちはどうすれば良いのか。私たちのより良い生き方をお教え下さい!」
 釈迦は答えた。
「K神父よ、良く聞きなさい。唯一絶対の神はあなた方の外に独立してあるのではなく、あなた方の心の中にあるのです。あなた方の心が神を作り、あなた方の心が神による救いを作ったのです。全ては心が作った幻です。それを知れば、あなた方は寛容になれるでしょう」
 次いで、弟子たちの中に、ヒジャーブをかぶり顔だけ出してる尼僧がいて、同様の問いを発した。
「尊者様!私はアラー神のみを信じる者です。私たちイスラム教徒はキリスト教徒と軋轢を続けて参りました。この先更に激化するでしょう。私たちはどうすれば良いのでしょう。私たちのより良い生き方をお教え下さい!」
釈迦は、尼僧に向かって、K神父さんへの答えと同様の答えを説いたのだった。
 やがて大勢の弟子たちが次々と質問の手を挙げ、「ロシアの南下政策が・・」、「中華思想の中国が・・」、「北朝鮮のミサイルが・・」、「だから集団的自衛権を容認して戦争を・・」などと次々に訴え始めたため、祇園精舎は騒然としてきた。
 突然、その喧噪の中で、あるはずもないラジオの放送が始まり、ニュース報道が聞こえて来た。
「・・・(第二次世界大戦の)東京大空襲の一夜が明けて、ニコライ堂には行き場のない焼け焦げた遺体が大量に運び込まれています。まさに阿鼻叫喚の地獄であり・・・」
と伝えていた。
「大変だ!今すぐニコライ堂に戻らないと!」
 K神父さんは、声にならない声を上げながら、悪夢から醒めた。
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 名曲喫茶の奧のテーブルは、いつもの間接照明で暗く、飲みかけのコーヒーはとうの昔に冷めていた。もう次のリクエスト曲らしい「禿山の一夜」が不気味に響き渡っている。
 K神父は学生街の通りに出ると、夕景色の暮れなずむ中、ニコライ堂への帰路を辿りながら考えた。いつまでも「唯一絶対の神」では通用しない。寛容が必要だ。地球は狭いのだから。


     青森県医師会報 平成26年10月 617号 掲載


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