お迎え                     目次に戻る
                       
 内科開業医K先生の外来は高齢の患者さんが多いので、時々「お迎え」が話題になる。
 あるお婆さんがこんな話をした。うちの爺さんは手のかからない人で、「今夜は少し具合が変だから早めに休むよ」と言って床に就いて、翌朝には冷たくなっていたんですよ。それなのに、私の方はもう90才も越したのに、未だお迎えが来ないんですよ。それに対してK先生は「あなたは元気ですから、まだまだですよ。百歳まで大丈夫ですよ(笑)」とお決まりの返事をする。むしろ、体力気力の衰えたK先生の方が頼りなくて、自分が医者なんだか患者なんだか、分からなくなっている始末だ。
 「お迎え」と聞くと、生家が浄土真宗であるK先生は、「来迎図」を思い浮かべる。ご臨終の往生者を極楽浄土に連れて行くために、紫雲に乗った阿弥陀如来が、観音菩薩や天女をあまた引き連れてお迎えに来て下さる、その様が描かれているのだ。そんな往生なら悪くはないが、自分の場合それは未だ未だ遠い将来のことだと思ってしまう。K先生も、既に先輩や同級生の訃報がしばしば届くようになっていたが、それでも今日明日に自分が死ぬとは思っていなかったのだ。

                    ☆

 もちろんK先生には、死に急ぐような理由はなかった。本棚に目をやれば、死に急いだ作家たちが見える。それで自分はどうなんだと思う。例えば、入水自殺した太宰治のように、「生まれて来て御免なさい」と書くほど内気でも純真でもないが、そうかといって最後まで生き残るほど勝ち気な性悪るでもない。薬物自殺した芥川竜之介のように、鋭利な理知の刃物が欠けて行くような苦しみはないが、そうかといってどうしようもないほど鈍重でもない。ガス自殺した川端康成のように、漠然とした不安から死を選ぶほど繊細でもないが、かといって死を知らぬほど粗雑でもない。割腹自殺した三島由紀夫のように、憂国の美学は持っていないが、太った豚ほどに美意識を失った訳でもない。
 生きなければならない理由はあるのか?K先生には、これからの余生を全てつぎ込んで、一世一代の大勝負にでるほどの野望は無かった。彼は、子供たちが巣立って、妻との二人暮らしだ。妻や子供たちが、将来に大きな不安がなく、ほどほどの生活ができると見通しが立てば、それで良いのだ。
 九死に一生を得て帰還した出征兵士の方々は、「生き残った自分は何か大きな力に生かされているのだ」と実感を語る。ある哲学者は、「人は盲目の意志に突き動かされて、自分が表象した世界に生きているのだ」というようなことを言った。そんなことを聞いたり読んだりしても、K先生は、自分を生かしている歴史の大きな力とか、内なる「盲目の意志」とかを感じることが無かった。それで当座、何となく生きているし、そのうち仕方なく死ぬんだろうと思う。つまり、K先生は全てにおいて中途半端なのだ。こんな主体性のない生き方で良いのだろうかと思うのだった。

                    ☆

 ある夜、K先生は悪心・悪寒がするので、奧さんに、「今夜は少し具合が変だから早めに休むよ」と言って二階の寝室で床に就いた。夜中に熱と胸苦しさでウトウトしていると、玄関で「ピンポーン」と小さい音で呼び鈴が鳴っている。隣で寝ている妻には聞こえないのか、スヤスヤと眠っていて目覚める様子が無い。「具合が悪いのに、何で私が応対に出なくてはならんのだ」と思いながら、仕方なく階下に降りて行き、玄関ドアの鍵を外して、そっとドアを押し開けてみた。玄関灯の下に黒い喪服の男が立っていて、静かな声で、「お迎えに来ました」という。その向こうの闇には、いつも電話で呼んでいる馴染のタクシが一台来て待っている、そんな風景は同じなのだが、今夜はどうも車種が違うようだ。もうろうとした頭では分からないが、タクシーのような、救急車のような、霊柩車のような、まぎらわしくて判然としない。K先生は、とにかく車に乗った方が楽になれるのだと知っていて、これに乗り込んだ。「バタン」とドアが閉められ、「カタリ」とロックが掛かった。これが今生の別れなのであった。
 ああ、いけない!二階に寝ている妻を起こして、事の成り行きを説明して来なければならなかったのに。ありがとうと言って、別れを告げて来なければならなかったのに。何も出来ずに車に乗ってしまった。すべては既に遅かった。妻は、「ああ、面倒を残して黙って逝ってしまうなんて、何と足りない夫なんだ!」と嘆くだろう。無念この上なしだ!
 車は暗闇世界の底を黙々と走り続ける。思い余ったK先生は、「やり残したことがある。やっぱり降りないといけない!」と運転台に向かって叫んだ。暗闇の中で車は止まり、ドアが開いた。K先生は車外に降り立つと、暗闇の中を、どこまでもどこまでも歩き続けるうちに、夢から目が覚めた。

                    ☆

 目覚めたK先生は、額に玉の汗をかいて解熱し、胸苦しさも遠退いていた。
 ああ、危ないところだった。あの時叫んだ「やり残したこと」って何だ?死ぬのが怖くって、ただ言い訳を叫んだだけのことじゃないのか?
 K先生はある言葉を思い出した。米国アップル社を創設したスティーブ・ジョブズが、ある大学の講演でこんなことを言ったという。「皆さん!今日が人生最後の日だと思ってください。そうすれば、自分が今何をすべきか分かるでしょう!」
 それで、K先生は、貯金通帳だの、生命保険証書だの、土地建物の権利証だの、ゴソゴソと整理を始めたのだ。「もっと他にすることは無いのか?」K先生は、心中にそう問い掛けてみるが、何ら返事の無いことが情けないのであった。

     青森県医師会報 平成27年12月 631号 掲載


 目次に戻る