ガラス戸の中                 目次に戻る
 
 ある小春日和の午後、K先生は縁側の日溜まりの中に居た。多忙にかまけて荒れるに任せた庭では自生のコスモスが風に揺れている。時折ガラス戸の外面に蜂が止まり、こちらに腹を見せていたかと思うと、何か用事を思い出したように、ぷいと飛び去る。
 K先生は縁側の安楽椅子に身を沈めた。昨晩は土曜日で、A高校の同期会だった。定年退職した多くの同級生たちが、自分の病気か孫の話をしていたが、心中ではそれぞれに「人生の答え合わせ」をしていたのだ。自分の人生は、これで正しかったのか?間違っていたのか?
 将来の大立て役者と目されていた人が、呆気なく「人生劇場」から退場していたり、思わぬ人が大輪の花を咲かせていたりする。ある人は、「人間到る所に青山あり」と新境地に賭け、幾ばくかの地歩を得ていた。 学年で一番のマドンナは、後に難病であることが判明したが、その彼女を一所懸命に射止めた彼氏は、それで幸せだったのか?
 来賓席では、自分の人生を肯定する人たちが、こぞって恩師を囲み「来し方」を語り合っていたし、そうでない人たちは遠巻きにそれを眺めていた。この同期会に参加しない人達や音信不通の人達だっているのだ。
 K先生もご多分に洩れず、ご自身の「来し方行く末」に想いを馳せたが、過飲の後のことは良く覚えていない。思えば、欧州にはこんな諺(ことわざ)がある。
「青年の体を女が温めてくれる。中年の体を酒が温めてくれる。老年の体を暖炉の火が暖めてくれる」
 多少のアルコールで二日酔いするようになったK先生は、縁側の日溜まりが何より嬉しかったのだ。
                         
 
 医師会の先生方は短歌や俳句を詠まれる。そこには医師としての心境が盛られていて、秀歌や秀句が多いのだ。これに感化されたK先生は、「三省堂:名歌名句辞典(佐々木幸綱編)」を買い求め、医学書の間に挟めている。時折これを開いて、気に入った名歌名句に出会うと、付箋を貼るようになっていた。
 K先生はいつも昼食後に短い午睡をとるのだが、今日は安楽椅子に着くと、膝上の「名歌名句集」を開く間もなく眠りに落ちて、夢を見始めた。

 夢の中で、K先生は始め白衣姿だったが、それが歳月とともに破れ果て、雲水僧の姿になって、目的地の無い放浪をしていた。山道を行きながら、
「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)
と呟(つぶや)きつつ、こんな自問をしている。
 ・・・自分はなぜ医師になったのか?故郷の人々への恩返し?ヒューマニズム?いや、社会的、経済的優位を求めただけなのか?ひょっとして、「故郷の地域医療は自分の使命だ運命だ」と、独り勝手に決め込んで自縄自縛になり、心身を削っているだけじゃないのか?それで幸せなのか?立ち上げた医院は借金返済の峠を越えたし、この先、余生を注ぎ込む程の野望はない。心身の衰えは疑いようもない。終わることのない診療が延々と続く。「自分の人生の目的地って何なんだ?」自分の人生について、未だ答え合わせが出来ていないじゃないか!分け入っても、分け入っても・・・と、呪文のように繰り返すうちに、目が覚めた。
                  ☆
 
 午睡から目覚めたK先生は、何か読みかけの本をと思って、志賀直哉「城の崎にて」を手に取り、読みかけの頁を開いた。
 この短編では、主人公の「私」が、一歩間違えたら自分が死んだかも知れない事故で怪我をして、城の崎温泉へ湯治に来ている。その宿の二階の窓から、屋根瓦の合間に蜂の巣が見える。「私」はある朝、その巣の入り口で、目まぐるしく動き回る蜂の中に、死んだ蜂が一疋全く動かずに転がっているのを見付ける。夕暮れになって、他の蜂が皆巣へ入ってしまっても、冷たい瓦の上に一疋死骸が残っていて淋しかったが、それは如何にも静かだった。
 K先生はそんな頁を読んでいるうちに、
「自分だけ少し早めに医師を引退して静かに楽になったって良いじゃないか」
と思った。同期の医師たちも自分も、四六時中患者さんのお世話に追われているし、大学教授だ田舎医者だと、地位や名誉に拘っている。K先生は、死んだ蜂を見て、ほっとして、自分も死んだ方が楽なのだと思う。自分はとっくの昔に、生存競争から降りているのだ。
 
 二日酔いが午睡を長引かせたせいで、もう夕日が傾き、沈みかけている。縁側に差す痩せ細った陽光の中を、蜂が一疋歩いていた。膜質の後翅が両側とも破れていて、既に飛ぶことが出来ず、跛行(はこう)するのがやっとの有様だ。ふとK先生は、「名歌名句集」の中にこの句があるのを思い出した。
「冬蜂の死に所なくあるきけり」(村上鬼城)
 そうか。私ももう冬蜂なのだ。自分の人生の答え合わせをしたところで、何の足しにもなるまい。この先も、最期の時まで放浪を続けるしかないのだろう。

 本棚には、書家の「相田みつを作品集」があって、その中には、
「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」
という書もあった。K先生は、自縄自縛のまま心身が衰え、放浪は倒れるまで続く。そんな今のこの境遇を「しあわせだ」と言わなければならないのか!そう思ったら、切なくて涙がにじんだ。感情失禁しやすくなった。困ったものだ。
 K先生は手帳を取り出して老眼鏡下に明日の予定を指でなぞっていた。

      青森県医師会報 平成29年 4月 647号 掲載


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