宇宙人に仏教を学ぶ                    目次に戻る
 
 西暦20x x 年。アメリカ西海岸、カリフォルニア州サンタ・モニカのビーチは、夜の帳が降りてもまだ沢山の人々で賑わっていた。その天空を埋め尽くす銀河に紛れて一艘の宇宙船が停留していたが、誰一人としてそれに気付く者はいなかった。宇宙船の中には二人の宇宙人がいて、興奮した面持ちでこんな会話をしていた。
 
 【操縦士】船長!望遠用のモニター画面をご覧下さい!思い思いに座禅を組む人たちでビーチがいっぱいです!彼らは仏教を実践しようと、座禅のことを「マインドフルネス」と呼んで、その効用を異口同音に讃え合っているようです。このビーチに限らず、この惑星では医師たちまでもが治療の手段として「マインドフルネス」の効用を高く評価しているのです。彼らは仏教を深く理解しているようです。やぱりこの惑星は仏教に導かれた「悟りの星」なのですね!
 【船 長】どうもそのようだ!私たちはやっと探し当てたのだ。かつて宇宙を統べる最高神ブラフマンが予言したとおり、銀河系太陽系第三惑星(地球)に、宇宙最高の覚者(目覚めた人、仏)が誕生したのだ。彼はインド亜大陸のシャカ族の生まれなので、釈迦と呼ぶことにしよう。私たちは、その釈迦の新鮮な教えを直接学ぼうと、遠路はるばる宇宙の彼方からやってきたのだ。いま最高の原理が初めて説かれた、その歴史的場面に我々は遭遇できたのだよ!地球人たちは至福の時を迎えているのだが、その肝心の釈迦はどこにおられるのだ?
 【操縦士】はい!更にモニター画面を拡大してみます・・・船長!大変です!宇宙船のカーナビの設定を間違えたようです!私は、確か「ビッグバンを始点とする宇宙歴138億年のインド亜大陸」とセットしたはずなのに、ここは「宇宙歴138億20xx年のアメリカ大陸」と表示が出ています。
 【船 長】何と?もしその表示が正しければ、残念ながらもう釈迦は寂滅された後だ。それに、場所も違う。確かここはキリスト教徒の土地だ。操縦士君、直ちに、地球人たちがよく利用するウェブ検索で、この惑星における仏教伝承の歴史を調べなさい。
 【操縦士】はい、ウェブ検索によりますと、仏教の主な伝承経路は次のようです。
@釈迦によって創始された仏教はインドで始まり、やがて地元の土着宗教と混じり合ってヒンドゥー教となり、現地には残っていません。
Aアジアに散らばった小乗仏教徒らは、自分たちの住む土地を巡って、イスラム教徒と争っております。
B大乗仏教は三蔵法師らによって中国へ伝えられ、中国仏教として日本に伝わり、その後、鈴木大拙がアメリカに伝えました。
C「マインドフルネス」がアメリカに広まったのはベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンの功績が大きい、とあります。
 【船 長】なるほど。仏教は確かにここアメリカにまで伝わっているのだね。私が理解するには、確か、仏教とは次のようなものらしい。つまり、ビッグバンによって誕生した宇宙の物質は全て素粒子から成り立ち、それら天文学的数量の素粒子は、量子物理学の法則に従って、絶え間なく衝突し集合と離散を繰り返して一瞬もとどまることがない(諸行無常)。そこに生じる森羅万象は、例えば砂漠の表層に風によって生じる風紋のように、形あるように見えても主体・実体がない(諸法無我)。そうであることを知って、記憶と感覚によって生じる「私」という意識を上手に解消すれば、苦(一切皆苦)から離れ、最高の境地(涅槃寂静)に至る。仏教とはそんな教えらしいのだ。
 【操縦士】船長。お言葉ですが、このビーチで「マインドフルネス」を学んでいる人々はそんなふうには見えません。
 【船 長】どうもそのようだ。彼らが「マインドフルネス」を学ぶには、何か他の理由があるようだ。つまり、この国の資本主義世界においては、邪念なく、無心に、より一層の富を掻き集めるような企業戦士が尊ばれる。「マインドフルネス」は、こういう企業戦士を能率良く育成するための手段として有用なのだ。
 また、「マインドフルネス」とは、仏教の瞑想から宗教色を抜き去ったものなので、唯一絶対の神が君臨するキリスト教徒らにとっては、神の支配の息苦しさから逃れるための、唯一安息の空間なのだよ。そもそも、日本では、仏教とは、漢字で書かれた経典の事で、線香と蝋燭、お墓と和尚、仏像と伽藍、極楽と地獄のことだと理解している。彼らは、釈迦の教えを「摩訶般若波羅蜜多心経・・・色即是空空即是色・・・」と漢字で書いて音読しているが、それではその意味が分かるはずがない。
 かえってアメリカでは、「縁起」とか「空」とか、仏教の核心的な考え方がシンプルな英語で説明されていて分かりやすいし、経典も仏像も儀式も無いのだ。彼らは、「一神教のもとに生きることの息苦しさ」から始まり、座って瞑想することで、宇宙・世界・自分を知ろうとする。「宇宙の全ては、原因と結果の中でのみ存在し、自分も含めた全てが一瞬一瞬と変化していて、本当の自分というものは無い」と、気付き始めたのであり、それは確かに仏教なのだろう。
 どちらの国でも、仏教が「何か凄いことを伝えているらしい」と気付きながらも、理解できずにいる。困ったものだ。一体、真の仏教とは何なのか?やはり覚者に直接学ぶしかあるまい。残念ながら、今回の覚者である釈迦が去るとともに、その教えは真夏の夜の大輪の花火のように輝いて消えた。この希有の出来事を正しく捕らえて宝物にできなかった地球人たちには残念至極と言う他はない。過去・未来および十方世界に覚者が出現するというのだから、他の惑星で次の大輪の花火を待とう。この宇宙のどこかで、天文学的数字の中のたった一瞬の確率で、次の覚者が誕生するであろう。私たちはそれを待って、宇宙人に仏教を学ぶことになるのだ。
 ウェブによれば、釈迦が法を説いて多くの地球人たちを救済し西方浄土へ渡られた。その寂滅の後の世界は弥勒菩薩に託されたという。弥勒は釈迦に導かれ次の覚者となって、56億7000万年後の未来に姿を現し、残りの地球人たちを救済するのだという。その時初めて、私たちは真夏の夜の大輪の花火を目の当たりにできるのだ!
 よし!操縦士君!カーナビの設定を入力したまえ。137億20xx年に、更に56億7000年を加算しなさい。つまり次の目的地を「193億70xx年の、銀河系太陽系第三惑星」に設定しなさい。今度は失敗しないでくれたまえ!
 【操縦士】はい船長、了解です!
 
 サンタ・モニカの夜が更け、その天空を埋め尽くした銀河の片隅から、宇宙船は静かに姿を消して行った。そんな宇宙人の会話を知る地球人は誰も居ない。


       青森県医師会報 令和 1年11月 678号掲載



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