便のお世話                   目次に戻る


 あるヘルパーさんの話です。
 彼女は、子育てを終えてから、初めてグループホームに就職し、ご老人の介護の仕事に就いたそうです。大小便のお世話が毎日の仕事に含まれていますが、すぐ慣れてしまい、何も気にならなかったそうです。
 やがて、彼女の夫が脳卒中で倒れたため、今度は夫の介護をすることになったのですが、夫の大小便の処理はとても苦痛となり、次第に手が震え足がすくみ、とうとう部屋に入るのを体が拒否するようになったと言います。
 彼女は、この違いは何なのだろうと考え、思い至ってこう説明したのでした。
 グループホームでの大小便は仕事として割り切れ、給料も貰える。ところが夫の介護では、それは妻の義務だと言われ、報酬が無く、自分一人が限り無い貢献を要求されている。従って、
「夫か自分か、どちらかが死ぬまでこの状態が続くのだ」
という行き場のない閉塞感が自分を苦しめているのだと言うのです。
 ここに大事なヒントがあるような気がします。
 いま日本では、世界に類を見ない少子・高齢化が進んでいます。同時に、大家族での暮らしを止めてしまい、今は「核家族」を通り越して、「核分裂」にまで進み、老老介護、老人の独居が少なくありません。
 こんな状況では、介護の仕事を、家族同士で助け合うという、日本古来の美的・道徳的仕組みで維持できる訳がありません。その結果、介護に倒れる人、疲労困憊してうつ状態の人など、犠牲者が無数に潜在していると言われて久しいのです。
 これではいけません。介護する人と介護される人との関係は、逃げられない、抜き差しならない、切羽詰まった「家族同士」の関係では無く、給料で割り切れる、交換の利く「他人同士」の関係の方が良いのではと考えます。
 このことは「便のお世話」に限りません。介護する喜びも苦しみも、介護される喜びも苦しみも、「家族同士」の間柄であれば、何倍にも増大するのです。夫婦愛、家族愛の美名のもとに、苦しみの強制があってはなりません。
 そして、これを制度として整えるほうが、日本社会のストレスや悲劇が減るのではないかと思います。それは、効率化を求めるあまり、人間関係を希薄にしてしまうこととは違うと思うのです。

     八戸市の月刊誌「うみねこ」2014年5月 565号 掲載


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